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2025.01.01

危険な二人

古い石畳の道は、ごつごつしている上に、ところどころ崩れて隙間ができており、ひどく歩きにくかった。
ヨーロッパの冬の寒さに備えて厚手のソックスと頑丈なブーツを履いていたが、それらに包まれた足裏が絶妙に刺激される。
私はロンドンの市街地を歩きながら、遠く鹿児島の狭い台所でうっすら埃を被っているであろう青竹踏みを思った。

歩くだけならまだしも、その時私は大きくて真新しいスーツケースまで引っ張っていた。
音が静かだといううたい文句に惹かれて購入したスーツケースは、石畳の凹凸にことごとく引っかかり、まるで断末魔の悲鳴のような騒音をまき散らしながら私の手に引きずられていた。

前を行く健脚の夫は、日本では神社でしか見かけることのないような厳つい石畳の道をものともせず、ただ黙々と歩き続け、私たちの距離は一秒ごとに広がっていく。
その背中からは絶対に振り返るまいという決意のようなものが滲み出ていた。

旅は一か月の予定だった。

私が転職をするタイミングで、ウイスキーを飲みにイギリスへ行こうと話が盛り上がった。
ロンドンで知人の部屋に二泊した後は、鉄道や船やレンタカーを駆使してスコットランドを巡り、ウイスキーの聖地といわれているアイラ島にまで足を伸ばすことになっていた。
もちろんツアー旅行ではない。
ロンドンを出た後は、その時々でB&B(ベッド&ブレックファースト。日本でいう一泊朝食付きの民宿)を探しながら旅を進めるという計画だった。
二人ともろくに英語も喋れないのに、怖いもの知らずなことこの上ない。

バックパッカーとまではいかなくても、冒険のように旅するつもりだった。
しかし、それを聞いた母が仰天し、目を白黒させたので、旅行の前にまずは結婚することにしたのだ。
二年も交際していた上に、私は既に三十を越えていたのでとんとん拍子に話は進み、私たちは同じ苗字のパスポートを手に、ハネムーンよろしく国際線に乗りこんだのだった。

もともと冒険旅行のつもりだったので、飛行機は当然エコノミーで、直行便ではなく乗り換え便だった。
香港空港での待ち時間は五時間にも及んだ。
身振りでハンバーガーを注文したり、搭乗口を探して時間ぎりぎりまで空港じゅうを走り回ったり、まさにすべてが冒険だった。
何とかイギリスに辿りついたはいいが、ロンドン在住の知人をどこで待つかという小さな問題で意見がわかれて喧嘩になり、憧れだった石畳の道を最悪な気分で歩くことになった。

旅の間、当時流行っていた「成田離婚」という言葉が何度か頭に浮かんだが、なんせ一か月にも及ぶ個人旅行なのだ。
そう簡単に帰国の日はやってこない。
オフシーズンのスコットランドでは、東洋人にさえほとんど出会うこともなく、二人で協力しなければその日の宿さえ決まらないという状況だったので、私たちは喧嘩と仲直りを繰り返しながら異国の地を共に歩き回った。

ネス湖を訪れたのはよく晴れた日の昼下がりだった。
湖なのに波が荒く、雨でも降っていればネッシーが出てきてもおかしくない雰囲気だ。
旅は終盤に差し掛かっていたが、その前日、この旅最大の喧嘩が勃発していた。
成田離婚が現実味を帯びてくる中、ネス湖のほとりで今後について話し合った。
喧嘩の原因も話し合いの内容も記憶にないが、和解した瞬間に広大なネス湖がオレンジ色に輝いたのを今でも鮮明に憶えている。

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旅には始まりと終わりがある。
来た時と同じように長い時間をかけて飛行機を乗り継ぎ、私たちは成田ではなく羽田に降り立った。

あれから十五年の年月が流れ、今日も盛大に夫婦喧嘩をした。
なぜこうも衝突するのか、それなのになぜ一緒にいるのか、謎だ。
スリル満点の冒険旅行から始まったせいで、二人の人生は波乱に満ちているのだろうか。

鬱々としていると、夫が無言のまま、ホットコーヒーを置いていった。
口を近づけると湯気で眼鏡が曇り、真っ白な世界がいっとき目の前に広がった。
扉の向こうから夫の咳払いが聞こえてくる。
この冬はのんびりと温泉旅行にでも行きたいね、と心の中で呟いた。

南日本新聞社 2025新春文芸
最優秀賞

テーマ「旅」

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